みんな大好きフライドポテト
一度に食べていいフライドポテトは6本だけ。驚愕の研究結果に悲しみの声。(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース
僕はこの厚い奴好き
フライドポテトポテトといえばじゃがいも。
じゃがいも文明の発達に大きく貢献した食べ物
じゃがいもは南米アンデス中南部のペルー南部に位置するチチカカ湖畔が発祥とされる。
このじゃがいもがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代。
15世紀から16世紀頃。
とうもろこしもこの時代。
日本に入ってきたのは1598年頃オランダ人によって持ち込まれた。
ジャワ島のジャガダラを経由した為ジャタライモ
長い(°_°)
なのでジャガイモと短縮。
日本人らしいエピソード。
その後各地で生産され今ではフライドポテト等幅広く使われるようになった。
#1日一回歴史情報
南極には不思議がいっぱい
隕石の7割以上は南極大陸で採取されている! なぜ南極大陸は隕石の宝庫なのか?/身近な科学 #SmartNews
こんな所でこんな記事に出出会すとはでは早速( ̄+ー ̄)皆さま南極はミステリーの宝庫なんです!!歴史ミステリー即ち南極は歴史において切っても切り離せない
まずミステリーその1「南極には地下帝国の入口がある」
皆さんは地球空洞説をご存知だろうか?理科で習うと思いますが、下から内核、外核、下部マントル、上部マントル、地殻(調べながら書いてます)となっていますが、近年ではそんなものはなく1967年に人工衛星が北極と南極に、ぽっかりと大穴を映像として捉えたとか、噂ではナチスがそこでUFO作ってるとか巨人が住んでるとか古代の恐竜がいるとかロマン!!ナチスはいてほしくないけど
ミステリーその2「南極怪獣南極ニンゲン」
これです。これは南極現れた南極のニンゲンというUMAで1958年に日本の調査捕鯨船の乗組員が目撃したらしく最近では此奴に追われるという事件も発生
最近では空ニンゲンなんてのいますよ、フライングヒューマノイドみたな奴ですかね
こんな奴
もしかしたら南極の空洞から出てきてるのかも
ミステリーその三「南極のピラミッド」
そうなんです、南極にピラミッドがあるんです、ピラミッドってエジプトじゃないの?と思ってる方ピラミッドエジプトだけじゃないんです。
マヤ文明のチチェンイッツァ
火星にもあるらしい
月にも
興奮するわ(^ω^)
因みにこちらが南極のピラミッド
考えもしなかったですね、確かにに雪と氷で覆われていますよね、その下に何が?浪漫が!!そう考えたらエジプトの砂全部取ったら。わかって頂けましたでしょうか?噂では南極でマンモスの目撃例もあります、さて気になりますね、次は何が出て来るのやら #1日一回歴史情報
戦国の殺し屋!!
永遠なる“武士の魂”!殉死に反対し戦国大名・宇喜多直家に忠告した老勇者のエピソード #SmartNews
この方は戦国時代の名将の1人ですね、歴史において切っても切り離せない、この人の異名は「殺し屋」その名の通り自分が邪魔だと思った奴は皆殺してしまうんです、それが例え血が繋がっていても、黒田官兵衛も此奴に嵌められて荒木村重の有岡城に幽閉されてしまったとか
毛利攻めの際に織田方は使者を送り寝返るようしたものの寝返らずしかし、ある人の説得にはすぐに応じました、それは
そうなんです、宇喜多直家は野心家であると共に人を見る力はあるようで羽柴秀吉は天下を取ると見抜き寝返ったんです、その後天下人豊臣秀吉が誕生しました。
この後秀吉の子、拾(ひろい)(後の豊臣秀頼)が生まれると秀頼を守る為の五大老と機関を作ります、その面子は
毛利輝元(毛利)
小早川隆景(毛利)
なんと毛利が3人も入ってる、数えると6人いますがお気になさらずに、これは完全に僕の考察なのですが上の方々本能寺の変に関与しているのではないかと思っております、それを話すとかなり長くなってしまうので別の機会に
この様に見事直家はお家を守ったんです!!これが直家が名将と呼ばれるに相応しい人物だと僕は思います #1日一回歴史情報
○○なんだから・○○だから嫌い
飯田圭織、「お行儀悪すぎる!」息子とチーズホットドッグを食べ歩きで非難轟々 #SmartNews
このニュースを見て思った事があるそんなに非難する??
僕もハットグって食べた事あるけど凄えうまい!!僕は食べる時は味わって食べたいからその場所に設置してあるベンチに座ってゆっくり食べるけどそういうのが設置されてない時は食べ歩きしちゃうかも、抑これって食べ歩き出来るようにしてるのでは?コメントを見てみる
コメント
「新大久保のゴミ問題が報じられているのに…」
問題点
気になるのは道中に「串」がよく落ちている事だ。「ハットグ」を食べ終わった後のポイ捨てが大量に発生しているという。中には、住民の家の玄関に座りこんで食べる者もいるそうだ。
私の答え
それは食べる人のモラルの問題で飯田さんには何ら関係ないのでは?ぽい捨てしてはいけない当たり前!!住民の家の玄関に座り込んで、モラルの前に下手したら不法侵入!!結果飯田さんがそれをした訳じゃないよね?
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コメント続き
「しかも芸能人ならもうちょっと意識しないと」
私の答え
僕この「○○なら」とか「○○だから」って嫌い!!芸能人ならとかってその世界に浪漫を持ちすぎでは?芸能人は僕らと同じ人間、なんで食べ歩きをするのに意識しないといけないの?これで例えば飯田さんがぽい捨てしてたり人の家の玄関に座り込んでたら非難されても仕方ないけど、それをしてないのに非難されるって普通におかしい!!抑人の行儀に対して非難出来る程非難してる人達は出来てるの?僕は食べる時のピチャピチャ音が聞こえるの嫌だけど自分も鳴ってる時、結構ある😓抑それが嫌ならそのブログは見なければいい、人様のブログを見て匿名で人様のブログにそういうコメントを載せる方が「行儀が悪い」って僕は思います!!
という訳で今日のテーマは「行儀」
長えええよ*1
ここまで結構長文だったよ!!そう今までのは振りです(ちょっと書いてる時にヒートアップしてしまいましたが😓)
はい、歴史において「行儀」は切っても切り離せない!!行儀が悪いで思いつく歴史上の人物と言われて思いつく人物は1人しか居ません
恐らく皆思い浮かんだと思います。織田信長の異名は「尾張の大うつけ」と呼ばれる程、青年期は特に酷かった様で服装は
湯帷子(浴衣の事で本来は袖があるのですがそれを千切って腕が動き易い様にノースリーブの様に着ていてた)
茶筅髷(月代を剃らない為手入れが要らず、赤や鮮やかな黄緑の糸で派手に仕上げた)
縄(腰には縄を巻くが利用法が色々あったとされる。縄を腕輪にする事もあった)
瓢箪(飲水や薬等を入れていた。火薬も入っていたかも知れない、何に使うの😓?)
半中(草履の前部分だけの物で、走り易い為、当時は普通に用いられた)
太刀(存在感を示す為、派手な朱鞘の大太刀を差していた)
火打袋(火打石など、野外で活動する為に必要な品を常に身に付けていた)
半袴(活動し易い短い丈の袴。道三(斎藤道三(信長の妻濃姫のお父さん)との会見時は虎皮と豹皮の模様の派手なもの)
この一覧みると凄いですよね、出で立ちだげではなく昼間はその辺の人達と相撲をやったり町中を歩きながら人目も憚らず栗、柿、瓜等の齧り食い、餅の立ち食い等…一説によると信長は立ったまま戦前に湯漬け(お茶漬け)を食べたと言われています。
比べると飯田さん全く行儀悪くねえ!!もし「飯田さんが歩きながら家系ラーメン食べてた」だったら俺も非難してたかも😑
しかし、こういった行動が信長の合理的思考を育てあげて古い固定概念を捨てて誰も手を出さなかった様な新しい事をやってのけていったのかも知れませんね。
まさに「芸能人だから」「芸能人なら」は固定概念ですね、これらを捨てて正しく優しく見守ってあげる事こそ最高の「行儀」だと私は思います
以上 #1日一回歴史情報
*1:;゚Д゚
ハンバーガーは乗るもんじゃない食べもんですよ
韓国でハンバーガーを店員に投げつけたり、百貨店の従業員を土下座させたりする客が相次いで出現し、問題になっています。韓国社会は激しく反発、雇用労働省も対策に乗り出しました。asahi.com/articles/ASLD9…
「投げる」弓矢が登場するまでは最強の武器又は技だった。
チンパンジーやゴリラも糞や木を投げつけるのは生物にとって最強。
しかもこれを戦術に生かした戦国大名がいる。
武田信玄公
元亀3年の三方ケ原の戦いの際。
武田方の武将小山田信茂が率いた投石部隊で徳川を挑発。
すると徳川家康は怒って城を飛び出し見事武田に誘い込まれ窮地に。
徳川家康の性格を表す句がある。
泣かぬなら鳴くまで待とうホトトギス
これ寧ろ短気だからこそ読んだ句。
この戦いで家康は己を知り後の関ヶ原、大阪で勝利し念願の天下人に。
僕が何を言いたいかと言うと短気は損気!!
#1日一回歴史情報
PCあります
使い慣れた1組のマウス・キーボードで複数のPCを操作できるフリーソフト「Mouse Without Borders」 - はてなニュース
PCパーソナルコンピューター、現代では当たり前のようにあり、もうPCですら古い時代勿論PC歴史において切っても切り離せない!!実は今よりも昔紀元前150年にパソコンが存在していたのではないか…というとんでもない噂がある、それが此方
此方はアンティキティラの沈没船から回収された歯車式機械でギリシア時代に作られたと言われていて単体運行を計算する為の物らしい。
こういうものをオーパーツと言いこれを作られた時代を超古代文明と言います!!これも歴史です!! #1日一回歴史情報
昔はそこら辺に生えてたのかしら
松茸あんまり食べた事ないですけど、やはり松茸と言えば日本歴史において茸切っても切り離せない。
日本のキノコ食文化の歴史は古く、縄文時代中期(紀元前2000年頃)の遺跡から、縄文人がキノコを食物として利用していたことを示す遺物(キノコ形土製品)が多数発見されており、岡山市の弥生時代の百間川・兼基遺跡からは、マツタケを模した「土人形」が出土している。
『日本書紀』には応神天皇に「茸」を献上したことが記されており、『万葉集』には奈良の高圓山のマツタケの短歌が載っており、平安時代になると当時の貴族がマツタケ狩りを季節の行事として楽しむようになり、『古今和歌集』、『拾遺和歌集』にもしばしばマツタケの歌が詠まれている。
安土桃山時代になると、武士もマツタケ狩りをしていた様子が記録として残されており、江戸時代になると一般大衆もマツタケを食していたことが江戸時代の料理本『本朝食鑑』に記録されている。
茸食べたい #1日一回歴史情報